2008年1月17日
ラリー・バードとマジック・ジョンソン
1956年、アメリカの中でもバスケットが盛んな地区と言はれるインディアナ州のフレンチリックと言ふド田舎で生まれたバスケットの上手い、しかし貧しい白人の男の子が、地元の名門インディアナ大へ進みました。勿論、名匠と言はれたボビー・ナイト・コーチに指導を受けるためでしたが、たった1カ月で退学してしまいます。
私は2度ほど行ったことがありますが、ハッキリ言へば退屈なところです。それでも彼には都会と写ったようで、都会のわずらわしさに疲れ、静かなフレンチリックへ帰ってしまいました。
しかし無名とは言へ、彼の能力の高さを知っていたインディアナ州大が彼を拾ってくれます。そしてインディアナ州大は彼を中心としたバスケットを展開したお陰で、4年生の時にNCAAトーナメント(全米大学競技協会、全米No.1を決める大会)ファイナルへ進出したのです。大変な出来事です。
彼の名はラリー・バードといいました。
バードが生まれて3年後、ミシガン州で一人のバスケマンが生を受けました。親の影響を受けて、子供の頃からどこへ行く時もバスケットボールをドリブルしていく少年でした。地元エベレット高2年生の時、ジャクソン・パークサイド高戦で36得点、18リバウンド、16アシスト、10スティールという目覚しい活躍をし、また、それを取材していた地元ランシング・ステート・ジャーナル紙のフレッド・ステーブリー記者が素晴らしい彼の活躍ぶりを称えて「マジック」とニックネームで呼んでから、アービン・ジョンソンは「マジック・ジョンソン」と言はれるようになりました。
マジックは高校を卒業してミシガン州大に進学します。皆さんも良くご存知の「Fab Five」として有名なミシガン大のライバル校です。ミシガン州大はマジックが1年生の時に25勝5敗でビッグ・テン・カンファレンスで優勝し、NCAAトーナメントも準々決勝まで進出しました。前年は10勝17敗だったチームが、です。
彼が2年生になった年、スパルタンズ(ミシガン州大)は遂にNCAAトーナメント決勝へ進出しました。
そこで優勝を賭けて対戦した相手はインディアナ州大。バードのチームです。彼らは無敗で決勝まで来ました。
この時点で既にスーパースターとなっていた二人。話題の選手同士の対戦とあって、全米から注目されるイベントとなり、TVの視聴率も大学選手権決勝戦として最高の数字を記録しました。
アメリカの学生バスケットはこれでますます盛り上がり、日本の高校野球の甲子園大会に匹敵する騒ぎになりました。アメリカのバスケ大学選手権の熱狂的な盛り上がりをアメリカではマーチ・マッドネス(狂乱の3月――毎年3月に開催されることから)と呼びますが、これはこの年が切っ掛けになったと言はれています。
もっとも、ファイナルフォー(この呼び方も最近ですが)は30年以上も昔から熱狂的でした。当時から、翌年のチケット予約を大会終了翌日から始めますが、直ぐに売り切れになってしまいます。
ゲームの結果は75-64でマジック率いるミシガン州大が優勝しましたが、この騒ぎはこれで終わったわけではありません。
この二人がそのままNBA入りしたので、人気もNBAへと引き継がれて行ったのです。
二人の運命か、それともNBAの運が強かったのか?
二人は揃ってNBAの名門チームへとドラフトされて入団したのです。もし此処で弱小チームにドラフトされていたら、二人のその後の運命とNBAの発展は望めなかったかもしれません。
マジックは未だ2年生でしたが、今で言ふ「アーリー・エントリー」でLAレイカーズに全体1位で指名されました。同じ年に、バードもNBA入りを果たします。となるとバードは全体2位?
いえいえバードは全体6位です。と言ふか、バードのドラフトはダークだったのです。
実はセルティックスが彼を指名したのは前年78年でした。このとき、すでにセルティックスへの入団は既定路線だったわけですが、在学中に契約してしまうと大学でプレーすることはできなくなってしまいます。そこで、セルティックスは指名権が翌年のドラフト前日まで有効であるという制度の盲点を突き、バードが4年生になる年の6月のドラフトであらためて指名し、学生のシーズンが終わってからサインさせたのです。
それ以来、卒業前にNBA入りを希望する学生は、「アーリー・エントリー」を前もって宣言しなければならなくなりました。
ボストンがバードを欲しがったのは、彼が人気と実力を兼ね備えた白人だったからです。当時は、NBAにおいてはまだ黒人選手が今ほど多かったわけではなく、会場に足を運ぶファンの数も白人が圧倒的でした。
その上ボストンは保守的な古い都市でもありました。そんなことがあって白人のスーパースターが欲しかったわけです。
セルティックスは76年に優勝したものの、78年に白人スターのジョン・ハブリチェックが引退して、77-78と78-79の両シーズンとも大きく負け越し、コーチが2シーズンで2回も代わると言ふ泥沼状態でした。
やっと獲得したバードは期待通りの活躍をしました。正確なシュートのみならず、展開を読む鋭い洞察力と集中力と勝負強さ。チームを一気にプレーオフ出場へと導きました。
一方のマジックが入団した名門レイカーズには、少し偏屈なスーパースター、カリーム・アブドゥル=ジャバーが居ました。このジャバーの気持ちを開かせたのは根っから明るく前向きなマジックでした。
マジックは、前シーズンは地区セミファイナル敗退だったレイカーズを、入団1年目からNBAファイナル進出させた原動力となる活躍を見せます。
ファイナル2勝2敗で迎えたフィラデルフィア・セブンティーシクサーズとのゲーム5、108-103で勝利したものの、主力センターでチームの大黒柱のアブドゥル・ジャバーは膝を痛めてしまいました。
そこで持ち上がったのが大型ポイントガードのマジックをアブゥドル=ジャバーの代わりにセンターをやらせると言ふアイデアです。高校時代センターだったマジックは早い動きと幅と体重を活かし42得点と15リバウンド、そして本業のアシストを7本も配給してチームを勝利と優勝へ導きました。
NBA入り1年目で早くも優勝。ルーキーでは始めてのファイナルMVPも獲得しました。
その翌年はバードのセルティックスがヒューストン・ロケッツを破り、チームにとって14回目の優勝をもたらします。ここからセルティックス−レイカーズの黄金時代、第二次NBAのブームが幕を開けたのです。
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この記事へのコメント
マジック・ジョンソンが本名でないことを初めて知りました^^;
これからも楽しく、そしてバスケが面白くなるエッセイをよろしくお願いします∈^0^∋
始めまして。返事が遅くなって済みませんでした。
そうですね。NBAのガイドブックにもマジック・ジョンソンと書いてありますからね(笑)
正式な彼の名前は Earvin Effay Johnson, Jr.(アービン イーフェイ ジョンソン ジュニア)と言います。アービン シニアを父にクリスティーンを母に、10人兄弟の6番目の子供として、ミシガン州ランシングで生まれました。かなり大家族です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3
