2007年9月5日
NBA草創期 NBA誕生(2)
11チームで始まったBAAですが、当初オーナー達は大学のスター選手を確保するのがリーグの繁栄に欠かせないと感じていました。そのスターとはディポール大のジョージ・マイカンとテキサスA&M大のボブ・カーランドの二人です。
BAAには既に始めて現代風のジャンプシュートを開発したジョー・ファルクと言ふポイントゲッターが契約していましたが、身長は195cmほどです。
当時はまだバスケットはビッグマンのスポーツではなく、身長190cm台で機敏に動ける選手が主流でした。そこへ206cmのマイカンと213cmのカーランドが出現して、バスケットをビッグマンのスポーツへ変えてしまったのです。
マイカンは平均得点20点を挙げた選手で、カーランドは46年NCAAのMVPに輝いた選手です。
ともに喉から手が出るほど欲しい選手ですが、カーランドはAAUというアマチュアリーグへ、マイカンはライバルのNBLシカゴ・ギアーズと契約されてしまいました。
二人の大学スーパースター獲得に失敗したことで、BAAの歯車は少しだけ狂いました。
BAA最初のシーズンはウエスタン・ディビジョンはシカゴ・スタッグス、イースタン・ディビジョンはフィラデルフィア・ウォリアーズがトップとなりました。
BAA最初のプレーオフは各ディビジョン4チームによって行はれ、スタッグスとウォリアーズがファイナルを争った結果、BAA最初のチャンピオンに輝いたのはファルクの居たウォリアーズでした。
シーズンは終わったものの、興行としては落第でした。スター選手がいないためか、大きなアリーナは空席ばかりが目立ち、3チームが活動を休止することになります。
47年のドラフトでも大学のスター達は老舗のNational League(NL)へと流れてゆきます。
ついに48年BAAのコミッショナー、マウリス・ポドロフはNLのチームにBAAへの加入を勧めました。実はライバルのNLも選手へのサラリーが高騰しており、経営は楽ではなかったのです。そうしてNLから4チームがBAAへ加わることになりました。
これはアメリカのバスケットボールにとって大きな転換期となります。この4チームの中にミネアポリス・レイカーズが含まれていたからで、そのレイカーズには46年からBAAが恋焦がれていたマイカンが在籍していたからです。
看板のマイカンが居なくなったNLはギブアップです。 49 年の夏、残りのチームもBAA入りを認め一気に 17 チームのリーグへとなりました。そして合併されたリーグのことを National Basketball Assotiation (NBA) と名付けました。
マイカンの人気は凄く、マジソン・スクエアー・ガーデンの看板には「 KNICKS vs. MIKAN」と書かれたほどでした。通常、看板には「KNICKS vs. LAKERS」と対戦カードを書きます。しかしこの日KNICKSの相手はLAKERSではなくマイカン一人、と思はれるほどマイカンの力と人気は絶大だったわけです。
凄いのは人気だけじゃありません。NBAのマイカンは、それまでの得点王ファルクを2点以上も離し、平均 28.3 得点で得点はリーグ 1 位に、成功率も 41 %で2位となり、チームの優勝に大きく貢献しました。
50 年代に入ってからは、人気のあった大学バスケが賭博のスキャンダルに汚染されたことや、TVで中継されるようになったこともあって、NBAの人気も上がっていきます。
現在と大きく違う点は、コートでプレーしているのは白人だけだった、と言うことですが、
それを打ち破ったのは 50 年夏のドラフトです。保守的な都市というイメージの強いボストンが2順目でデュケスン大のチャック・クーパーと言ふ黒人を指名しました。それを受けて7順後にワシントン・キャップスがアール・ロイドを指名したのです。チームのスケジュールの関係でロイドが先にNBAのコートに立ったためロイドが最初の黒人と言はれていますが、セルティックスが先にクーパーを指名していなければ、キャプスが同じ黒人のロイドを指名したかは判りません。
