2008年4月28日
NBA 空白の2年間
アキーム・オラジュワン。これで213cmですから。
翌95年、ロケッツは強力な補強を行いました。地元ヒューストン大出身でオラジュワンと同期で、ドリーム・チーム・メンバーのクライド・ドレクスラー(200cm)をトレードで獲得しました。そしてこの年シーズン終わり近く、ジョーダンが野球からカムバックしてきました。とは言へ1年半のブランクは長すぎて、流石のジョーダンも完璧な状態でプレーオフには臨めず、セミファイナルで若い”シャック”シャキール・オニール、ペニーことアンファニー・ハーダウェーを擁するオーランド・マジックに2勝4敗で破れてしまいます。イースタン代表はペーサーズを4勝3敗で下したマジックが初のファイナル進出を決めました。一方ウエスタン・カンフェレンスはディフェンディング・チャンピオンのロケッツが、提督デビッド・ロビンソンを擁するサンアントニオ・スパーズを4勝2敗で退けてNBAファイナルに進出しました。マジックvs.ロケッツは言い換えるとシャックvsオラジュワン、ハーダウェーvsドレクスラーとも言へます。若さと才能あふれるシャックとペニー・コンビ対NBA11年目のクライド・ドリームのベテランの対戦です。 若さあふれるマジックがスタートを制して前半は57-37と大きくリードしました。しかしその後ロケッツはケニー・スミスが驚異的に3Pを決めて追い上げます。そして4Qも残り10.7秒のところでマジックが110-107とリードしていました。その上フリースローを貰っているので、逃げ切りの可能性は大です。ところがここからマジックの悲劇が始まります。10.7秒の間に4回のFTを貰っていながら、若いニック・アンダーソンが全部落としてしまいました。あと1.6秒と迫った時、ロケッツのスミスに3Pを入れられ同点とされてしまいます。そして逆転の期待を込めたデニス・スコットのシュートはロケッツのオーリーがブロックされました。 オーバータイムに突入です。オーバータイムはシーソーゲームとなりましが、最後を決めたのはオラジュワンです。ロケッツに加入したばかりのドレクスラーがレイアップショットに行きましたが入りません。リングの上に跳ね上がったボールを、オラジュワンがシャックの手を制してコントロールして押し込みました。得点は120-118、時計は既に1秒を切りました。勝負の分かれ目となったのはアンダーソンのフリースローでした。怖いものです。たった10秒間の出来事で、局面がガラリと変わってしまったのです。そこからマジックの勢いはなくなって行き、若いチームは立ち直ることなく0勝4敗のスイープでロケッツのツーピートのお膳立てをすることになりました。 この頃は、まだシャックもスマートでした。オーリーのクラッチタイムの活躍が目に付きます。
ドレクスラーはやっとリングを指にはめることができました。そしてまた、ジョーダンが帰ってきたNBAの新しい歴史が始まるのです。

2008年4月22日
Three-Peat(三連覇)なるか?シカゴ・ブルズ
93年は個人的にも思い出の多いシーズンでした。私が初めてNBAファイナルを見に行った年なんです。
現在ファイナルの開始日はシーズン前から決まっていますが、当時は行き当たりばったり(笑)だったので、航空券やホテルの予約等が簡単ではなかったので、日本から行くのは難しかった時代でした。
サンズvs.ブルズのファイナルは、ブルズのスリーピート(3連覇)がかかったシリーズでした。日本では聞きなれませんが、アメリカスポーツ界で良く使われる言葉に「Dynasty(王朝)」と言ふ言葉があります。長期政権と言ふか、1チームが長く勝者であり続けることです。
プロ野球で言へば、ウン十年前の巨人軍です。それには3連覇が条件と言はれているので、ブルズはこの年が正念場でした。
サンズはPGにKJことケビン・ジョンソン、SGダン・マーリー、SFリチャード・デュマス、PFチャールズ・ダークレー、Cマーク・ウエストがスターティング・ラインナップで、Fトム・チェンバースとGダニー・エインジ(現セルティックス社長)がベンチの主な控えメンバー。
対してブルズはPGにBJアームストロング、SGマイケル・ジョーダン、SFスコティー・ピッペン、PFホーラス・グラント、Cビル・カートライトのスタメンとGジョン・パクソン、Cスコット・ウイリアムスが主なバックアップ陣です。
ジョーダンとサンズのバークレーはプライベートで仲が良く、ともに人気者ということもあって、興味深いカード。このファイナルは今後のNBAにも大きく影響を与えた「アジャスト」がキーワードになったシリーズでもありました。
シーズンはサンズ62勝20敗、ブルズ57勝25敗で、共に高い勝率でしたが、サンズのシーズン成績が上のため、ホームコート・アドバンテージはサンズが持っており、フェニックスから始まりました。
その敵地でサンズの主力バークレーとKJを抑えたブルズは2連勝を挙げ、意気揚々とシカゴへ凱旋しました。不利なアウェーで連勝して、今度は優位な地元シカゴと言ふことで、町中が「Sweep,Sweep(全勝で勝ち抜け)!」と大騒ぎです。超満員となったシカゴ・スタジアムにはSweepには掃くとか掃除する意味もあることから、ゲーム3では箒を持って来場するブルズ・ファンもあらわれました。
ところがそれほど甘くないのが勝負の世界です。
サンズのウエストポール・コーチはディフェンスのマッチアップを換えました。動きの早いジョーダンに小さいながらクイックネスのあるKJをつけると言ふアジャストを行い、その他のマッチアップも全て代える大胆な作戦に出ました。
その為かゲーム1・2で不調だった得点源のマーリーとKJに当たりが戻り、トリプル・オーバータイムの末121-129でブルズを下し、1勝目をあげました。
続くゲーム4。バークレーのローポストの1on1に対し、ブルズはダブル・チームを仕掛けると、バークレーはシュートせずに外へパスをさばき3Pシュートを打たせます。
それに対してブルズはローテーションして外のシュートを楽に打たせないようにとゲーム内でアジャストをします。そんな頭脳ゲームの中、唯一人ブルズはジョーダンがエンジン全開です。
最後はジョーダンがレイアップでバークレーからファールを奪いand1を決めて残13秒で5点差を付け逃げ切り、王手をかけました。ジョーダンは前ゲームの44得点を上回る55得点を挙げました。
ゲーム5のサンズの合言葉は「シカゴの街を救え!」です。可笑しいでしょう。サンズが勝てば騒ぎは起こらないので、シカゴの街を救える、と言ふ意味なんです。このままシカゴでブルズが優勝したら、盛り上がり方が半端じゃなかったため、大騒動になることは必至と言はれていました。その為にTVやラジオ新聞等で「騒動は起こさないように」と呼びかけもあったほどです。
街中の商店は商品を片付けたり、ショーウインドーにテープを張ったりという予防策をとっていて、我々日本人はそれを見て驚いたものです。
サンズはディフェンスに勝機を見出そうと、勝ったゲーム3と同様にジョーダンにKJをマッチアップさせ、時にはダブル・チームをして41得点に抑えました(笑)。ジョーダンには50得点されなければディフェンスの勝ちなんです。
シカゴでの3戦中2勝をあげ、シカゴの街を救ってフェニックスに帰ってきたサンズは地元の大声援を受けてゲーム6に臨みました。
しかしブルズが常にリードする展開で、第2Qでは11点差も付けられ、最終Qに入るときは8点もビハインドしていました。しかしこのまま地元で相手の優勝を見たくないサンズは必死のディフェンスで追い上げをはかり、残り2分55秒には逆転して96-92と4点のリードを奪いました。
しかしブルズの強さは最後の土壇場で発揮されます。
残り14秒、98-96でサンズのリード。これを守りきれば、サンズは有利なホームでの最終ゲームへ持ち込めます。
この場面なら、誰もがジョーダンのシュートと考えますが、KJにタイトにディフェンスされている彼は無理をしません。トップに上がってきたピッペンにボールを回します。
ピッペンは素早く反転してゴールへドライブすると、そこへ左下からグラントをマークしていたウエストがカバーに来ました。ピッペンはショートコーナーにノーマークになっているグラントを見つけパスを通します。
グラントはシュートを入れれば同点になるけれど、時計は止まり、ボールは相手のスローインになります。8秒残っていれば相手にシュートを決められる可能性は非常に高くなります。その上リングまでの距離は2mちょっと。ボードと平行のポジションではバンクショットも出来ません。ゴルフで言ふ「外し頃」の難しい距離なんです。
それなら3Pシュートで逆転を狙ったほうが良いと考えます。しかし3Pシュートは簡単に入るものではありません。精々40%強の確率です。
3Pエリアでノーマークだったパクソンを知っているグラントは、躊躇せずパクソンへパスしました。彼の3Pの確率はブルズ最高を誇る46%です。そして確率だけではなく、クラッチ・シューターとしてもチームメイトから信頼されています。
パクソンの右手から放たれたボールは綺麗なアーチを描いてリングに向かってゆきます。
「Nothing but net」‐‐ボールはリングにカスリもせず、ネットに吸い込まれました。
この時、時計は3.1秒を表示していました。
ブルズは劇的な逆転劇でスリーピートを果たし「シカゴ王朝」を築き上げました。
しかしその後、世界を揺るがす衝撃が待っていました。

2008年4月9日
転換期、1991-1992シーズン
初優勝を飾ったブルズですが、91-92シーズンは世界のバスケット界ではさまざまな出来事がありました。
まずは91年11月、シーズンが始まる直前の出来事です。日本でも大きく報道されたマジック・ジョンソンのHIV感染とそれによるNBAの引退発表。これからNBAのシーズンが始まるぞ、とワクワクしていた時だっただけに、バスケット愛好家のみならず全米がショックを受けた出来事です。マジックは引退して1ゲームもプレーしてないのにもかかわらず、ファン投票でジョーダンを抑えて最多の投票を獲得したため、オールスター限定でカムバックしました。
ゲーム自体は、ディフェンスを一生懸命にやらない、いわゆるオールスターゲームの典型的なもので、内容は凡庸なものでした。ジョーダンが少しマジにやっていた程度です。
盛り上がったのは最後の1分ほど。先ずプライベートでとても仲の良いアイザイア・トーマスがマジックに絡みました。華麗なドリブル・テクニックを魅せるするアイザイアとディフェンスするマジック。他の選手は気を利かせてアイソレーション(孤立)します。
次はジョーダン、真面目な性格が良く出たプレーです。ドリブルで舞台が整うのを待つジョーダン。大スター同士のマッチアップに場内はスタンディング・オベーション。しかしジョーダンは遊びも無くストレートに勝負しています。相手は引退するんだから、花を持たせてやれよ、って感じです(笑)。
最後もアイザイアでした。ドリブルするマジックにマッチアップします。残り16秒、トップのやや右から打ったマジックの3Pシュート。大きなアーチを描いてボールはリングへ。偶然にも、私が座っていた記者席とマジックそしてリングが一直線上です。ボールは真直ぐにリングに向かって行くのが見えました。「入る」と思ったとおり、ボールは綺麗にリングに吸い込まれて行きました。
「Nothing but net」と言ふバスケットの言葉があります。正にそのとおり。ボールはリングにかすらず、ネットだけを揺らして西軍に153点目を与えました。
その前まではクライド・ドレクスラーが最多得点だったので、MVPがほぼ決まっていたのを、この3Pシュートでマジックが強引に引き込んだイメージです。やはりスーパースターなんですね。
シーズンをリーグ最多勝で終えたのはシカゴ・ブルズで、2位はポートランド・トレイルブレイザーズでした。とは言えブルズですら簡単にはファイナルへは進ませてくれません。行く手を阻むのは、パトリック・ユーイング、ジョン・スタークス、マーク・ジャクソン等のNYニックスです。この頃のニックスは一時のピストンズのように荒っぽいディフェンスと向う気の強いメンバーが揃ってました。ニックスを4勝3敗でやっと下し、キャブスも4勝2敗で破り2年連続のファイナル進出です。
一方ブレイザーズは何てことなくレイカーズ、サンズ、ジャズを下しての進出となりました。
ファイナルゲーム1はとんでもないことが起こりました。元々ジョーダンは外からのシュート、特に3Pシュートに関しては達人ではありません。それが、前半だけで6本も決めちゃったんです。82ゲームあるシーズン中の合計がたったの27本。気持ち良かったんでしょうね。6本目が入った時は、流石のジョーダンも肩をすくめていました(笑)。
勝負師だけあって、得手不得手は別にして、自分がゾーンに入っていると感じたら、つまり長いシュートが好調と思ったら、打ち続けたほうが良いと考えて積極的に打ったと言っていました。
ゲーム2は敗れましたが、ポートランドへ移動してのゲーム3はブルズが取って2勝1敗にします。
結局ポートランドで2勝したことが大きく、ブルズは6戦で優勝を決めますが、この年もコーチのフィル・ジャクソンは大胆な手を打ってきました。13点も負けているゲーム6の4Qのメンバーに、ジョーダン抜きで4人の控え選手を投入しました。元気な若い4人が走り回ったお陰で、3分半ほどで3点差まで追い上げたのです。そこでジョーダンが登場、疲れたブレイザーズ相手に、ピッペンと二人で19得点して見事逆転勝ちしてNBA2連覇しました。
このシーズンはこれで終りではありません。NBAおよび世界のバスケット史上、特筆すべきことがありました。世界戦略を図るプロのNBAとアマチュア世界連盟のFIBAが手を結んで、アマチュアの祭典であるオリンピックにプロのNBA選手が出場できるようにしたのです。
「ドリームチーム」と呼ばれるアメリカ代表、いやNBA代表の誕生です。
HIV感染で引退したマジックが中心となってスター選手を集めました。腰が悪く引退寸前のラリー・バード、既に金メダルを1個持っており、出場には後ろ向きだったジョーダン達を説得したのがマジックです。
ヨーロッパではNBAのテレビ中継はそこそこ盛んで、多くのバスケット愛好家は見ており、特に各国の代表選手クラスは見ていたようで、テレビで見ていたNBA選手を相手に戦ったわけです。雲の上の存在のNBA選手相手に、各国の選手は、アメリカとのゲーム前に記念撮影が当たり前になるほどでした。中にはベンチからカメラを構えてジョーダンを撮影する選手も。またこれをテレビが全世界に放映したため、バスケットとNBAの面白さが全世界に広がり、NBAが世界中に知られることになった最大の要因、とする専門家は多いですね。
そんなようなことで、勝負は戦前から判っており、文句なしにアメリカが優勝しました。NBAにとって、また世界のバスケット界にとって有意義な長い1年でした。
