2008年6月5日
与那嶺翼(大分ヒートデビルズ)〜プロリーグで生きる173pの誓い〜
「自分を認めさせたい」――これがbjリーグのスタート地点
与那嶺翼は2年目となる2007−2008シーズン、大きな成長を遂げた選手だ。「尊敬している」という日本体育大の先輩、鈴木裕紀ともに2ガードを組んでスタメンに抜擢されると、持ち前のスピーディーな展開から的確なパッシングで大分のリズムを生み出していった。3月15日、16日の仙台戦では、15日に8アシスト、3スティール、16日には14得点、7アシスト、3スティールを記録。イースト首位に連勝する立役者となり、初の週間MVPを受賞している。アシストは平均5.6本でリーグ2位。出場時間平均28.9分は大分における日本人選手1位をマーク(外国人選手を含めると、アンディー・エリス、ジャスティン・アレンに次ぐ3位)し、フル回転のシーズンだった。
取材を行ったのは東京アパッチとの最終2連戦の直前。「2年目の飛躍」として話を聞こうと臨んだのだが、そこで彼が切り出してきたのは、「bjリーグでの決意」だった。
話は大学時代に遡る。与那嶺の出身校、日体大はチームのモットーで、代々、大型のポイントガード、もしくはオールラウンドにこなすガードを育成するシステムにあった。古くは安田邦春(元松下電器他、191p)、三宅学(元松下電器他、184p)、大江俊之(元オーエスジー他、185p)、現役では大野篤史(パナソニック、197p)、鈴木裕紀(大分ヒートデビルズ、181p)、佐藤濯(レラカムイ北海道、192p)……。
「身体能力がすごい木下さん(博之、パナソニック、178p)でさえ、ガードとしては小さいと言われていました。同期にはエヴェッサにいた斉藤(資、180p)もいたし、だから173pの僕はなかなか試合に出られなかったんです」
実際、大学時代の与那嶺はゲームに出れば信頼に応えてきた。1年生の時からチャンスをもらっては、日体大のカラーであるスピードを生かした中でいいアシストを生み、練習でも与那嶺が中心となってスタメンチームを負かすことも度々あった。それでも、2年、3年と学年が上がってもスタメンに昇格することはなく、2、3番目の司令塔として甘んじなければならなかった。4年時にはシックスマン(6番手の選手)となり、流れを変える働きでチームに欠かせない存在となる。スタメンと同等の力を求められるシックスマンは重要な役割だということは理解している。だが、彼の中では最後までスタメンになれなかったことが、「背が低いことで自分を否定されたような」(与那嶺)コンプレックスにも似た気持ちになっていた。
「だから、小さくてもプロリーグでやれるんだと認めさせたいんです。小さいから試合に出られないって大人が決めつけちゃうと、子どもたちに夢を与えることができなくなってしまうから」
大きな目を見開いて、偽りのない気持ちを言葉にする。「見返してやる」ではなくて「認めさせたい」というのが、彼の持つ真面目で素直な性格を表していると言おうか。これが、与那嶺翼がbjリーグに挑む第一の目標であり、スタート地点だ。
ガードとしての苦い経験が生きるのはこれから
翼がバスケットボールを始めたのは小4の時。2歳上の兄・聖(ひじり)の影響だった。小2の時には琉球空手で県の最優秀選手賞を受賞するほどのセンスを持ちあわせていたが、兄が楽しそうにバスケットをやっている姿を見ているうちに、いつの間にか自分もバスケットのトリコになっていた。兄の中、高時代の同級生には澤岻直人(琉球ゴールデンキングス)がいて、コザ中では1年時に兄や澤岻とともに全国大会でベスト8入り。3年時には呉屋貴教(富山グラウジーズ)とともに全国制覇を果たしている。北中城高では2年時のインターハイベスト8が最高成績。コザ中、北中城高ともにキャプテンとして順風満帆にキャリアを重ねてきた一方で、与那嶺はガードとしてこれ以上ない苦い経験もしている。
高2のインターハイ、準々決勝、能代工業戦。1点リードで迎えた残り6.7秒。北中城の最後ともいえる攻撃は、サイドのスローインから始まった。与那嶺はパスを出すためにとっさにサイドラインに走った。その時、何を思ったのか、チームでハンドリングが一番苦手だった選手にパスを出してしまう。結果、パスカットされてレイアップへとつながれた。北中城の選手はゴール前に立ち塞がったが、これがファウル。時計は“0・1秒”という際どい時間で止まった。この後、2本のフリースローを決められて能代工が大逆転勝利。能代工はその勢いでインターハイ優勝をさらった。
3年生のインターハイ県予選では優勝確実と言われたが、決勝リーグで前原に1点差で敗れる憂き目にもあった。残り10数秒で1点リード。これまたマイボールだったが、与那嶺はプレッシャーをかけられたわけでもないのに、空いていた味方にパスをした。その後、一度はキャッチしたパスがファンブル気味になり、これをカットされてレイアップに持ち込まれてしまった。1点差で逆転負け――。
いずれも、与那嶺が直接ボールをカットされたわけではない。だが、「能代工戦は自分がボールを受ければ良かったし、前原戦は自分がボールをキープすれば良かった」と、ガードとしてはやってはいけない判断ミスをしたことに、悔やんでも悔やみきれなかった。
「僕の高校3年間は悔しい思いばかりなんです。大学でも……」
そう言うと、与那嶺は言葉をグッと飲み込んだ。「だから、今は後悔したくない」――そのあとに続くであろう言葉の先には、東京との最終2連戦が控えていた。悔しい思い出、とはいっても、過去の過ちを教訓にするかのように前向きに語っていた与那嶺が、目の前のワイルドカード争いのことになると、今度ばかりは「司令塔として同じ轍は踏まない」との思いからか、表情を険しくさせていた。
結局、大分は東京との2連戦を含む終盤に5連敗を喫してしまい、ワイルドカード進出を逃した。あと1勝さえすればよかった。1点差でもいいからあと1勝さえすれば、同率の福岡に得失点差で上回るため、ワイルドカード進出が決まった。しかも、東京との最終試合は前半10点のリードを追いつかれ、延長戦に突入しての1点差での惜敗。与那嶺は30分出場し、14得点、6アシストを記録して役割を果たしたが、延長戦に入ってからはディフェンスの際に接触して足を痛めてしまい、最後はコートに立つことができなかった。それもまた、悔しさを募らせていた。与那嶺が司令塔としてチームを機能させなかったから負けたわけではない。というよりは、チームの持つエネルギーが東京に及ばなかった内容だった。
大学時代は自身の存在をどうアピールしようかと向上心を燃やしてきた与那嶺だが、いまや大分のスタメン。いかにして「ゲームをコントロールするか」という一段階上の壁にぶつかっている。特に、大分にはリーグ屈指の得点力を誇る211pのアンディー・エリスがいる。彼の生かし方がカギとなるが、与那嶺は「外国人選手の使い方を考えすぎてしまって、それを迷っていると、今度はアウトサイドの得点チャンスを見失ったり、コールすることすら戸惑ってしまったりする時がある」のだという。また、改善しなければならないのが、ターンオーバーを犯したあと。与那嶺はゲームの入り方がいいと好調を持続するが、シュートタッチが悪かったり、ターンオーバーを犯したりしたあとに、ゲーム中に修正して自分のリズムを保つことがまだできない。スタメンで試合に出るようになって出てきた課題は多い。
「僕の身長ではポイントガードしかできない。誰よりも必死に、一生懸命やることが今までのモットーだったんですが、これから僕のような小さい選手がプロリーグで生き抜いていくには、必死さだけじゃダメなんだと痛感しています。身につけたいのはバスケットの知識。身体能力というのは年齢とともに衰えていくものだと思うので、歳を取ってもバスケができるように、考えてプレイできるガードになりたい。経験って失敗を繰り返して修正していくことなのかなあと、bjリーグで試合に出るようになってわかるようになりました」と、スタメンになったからこそ実感できた手応えを得て、今シーズンを終えた。
悔しい結果に終わった2年目。ガードとして外国人選手の使い方の難しさを知った2年目。スタメンとなって“経験”の意味を考えるようになった2年目。与那嶺が大分になくてはならない存在となったことは間違いない。大きく飛躍した173pの司令塔は、尊敬する鈴木裕紀とともに、来季へ期待をこめて、チームにプロテクトされた2人の日本人選手に名を連ねた。これは与那嶺翼がフロントに実力を「認めさせた」結果だ。
写真:アフロスポーツ/bjリーグ


