2008年6月5日

与那嶺翼(大分ヒートデビルズ)〜プロリーグで生きる173pの誓い〜

取材・文:小永吉陽子



「自分を認めさせたい」――これがbjリーグのスタート地点

与那嶺翼は2年目となる2007−2008シーズン、大きな成長を遂げた選手だ。「尊敬している」という日本体育大の先輩、鈴木裕紀ともに2ガードを組んでスタメンに抜擢されると、持ち前のスピーディーな展開から的確なパッシングで大分のリズムを生み出していった。3月15日、16日の仙台戦では、15日に8アシスト、3スティール、16日には14得点、7アシスト、3スティールを記録。イースト首位に連勝する立役者となり、初の週間MVPを受賞している。アシストは平均5.6本でリーグ2位。出場時間平均28.9分は大分における日本人選手1位をマーク(外国人選手を含めると、アンディー・エリス、ジャスティン・アレンに次ぐ3位)し、フル回転のシーズンだった。

取材を行ったのは東京アパッチとの最終2連戦の直前。「2年目の飛躍」として話を聞こうと臨んだのだが、そこで彼が切り出してきたのは、「bjリーグでの決意」だった。

話は大学時代に遡る。与那嶺の出身校、日体大はチームのモットーで、代々、大型のポイントガード、もしくはオールラウンドにこなすガードを育成するシステムにあった。古くは安田邦春(元松下電器他、191p)、三宅学(元松下電器他、184p)、大江俊之(元オーエスジー他、185p)、現役では大野篤史(パナソニック、197p)、鈴木裕紀(大分ヒートデビルズ、181p)、佐藤濯(レラカムイ北海道、192p)……。

「身体能力がすごい木下さん(博之、パナソニック、178p)でさえ、ガードとしては小さいと言われていました。同期にはエヴェッサにいた斉藤(資、180p)もいたし、だから173pの僕はなかなか試合に出られなかったんです」

実際、大学時代の与那嶺はゲームに出れば信頼に応えてきた。1年生の時からチャンスをもらっては、日体大のカラーであるスピードを生かした中でいいアシストを生み、練習でも与那嶺が中心となってスタメンチームを負かすことも度々あった。それでも、2年、3年と学年が上がってもスタメンに昇格することはなく、2、3番目の司令塔として甘んじなければならなかった。4年時にはシックスマン(6番手の選手)となり、流れを変える働きでチームに欠かせない存在となる。スタメンと同等の力を求められるシックスマンは重要な役割だということは理解している。だが、彼の中では最後までスタメンになれなかったことが、「背が低いことで自分を否定されたような」(与那嶺)コンプレックスにも似た気持ちになっていた。

「だから、小さくてもプロリーグでやれるんだと認めさせたいんです。小さいから試合に出られないって大人が決めつけちゃうと、子どもたちに夢を与えることができなくなってしまうから

大きな目を見開いて、偽りのない気持ちを言葉にする。「見返してやる」ではなくて「認めさせたい」というのが、彼の持つ真面目で素直な性格を表していると言おうか。
これが、与那嶺翼がbjリーグに挑む第一の目標であり、スタート地点だ。


ガードとしての苦い経験が生きるのはこれから

翼がバスケットボールを始めたのは小4の時。2歳上の兄・聖(ひじり)の影響だった。小2の時には琉球空手で県の最優秀選手賞を受賞するほどのセンスを持ちあわせていたが、兄が楽しそうにバスケットをやっている姿を見ているうちに、いつの間にか自分もバスケットのトリコになっていた。兄の中、高時代の同級生には澤岻直人(琉球ゴールデンキングス)がいて、コザ中では1年時に兄や澤岻とともに全国大会でベスト8入り。3年時には呉屋貴教(富山グラウジーズ)とともに全国制覇を果たしている。北中城高では2年時のインターハイベスト8が最高成績。コザ中、北中城高ともにキャプテンとして順風満帆にキャリアを重ねてきた一方で、与那嶺はガードとしてこれ以上ない苦い経験もしている。

高2のインターハイ、準々決勝、能代工業戦。1点リードで迎えた残り6.7秒。北中城の最後ともいえる攻撃は、サイドのスローインから始まった。与那嶺はパスを出すためにとっさにサイドラインに走った。その時、何を思ったのか、チームでハンドリングが一番苦手だった選手にパスを出してしまう。結果、パスカットされてレイアップへとつながれた。北中城の選手はゴール前に立ち塞がったが、これがファウル。時計は“0・1秒”という際どい時間で止まった。この後、2本のフリースローを決められて能代工が大逆転勝利。能代工はその勢いでインターハイ優勝をさらった。
3年生のインターハイ県予選では優勝確実と言われたが、決勝リーグで前原に1点差で敗れる憂き目にもあった。残り10数秒で1点リード。これまたマイボールだったが、与那嶺はプレッシャーをかけられたわけでもないのに、空いていた味方にパスをした。その後、一度はキャッチしたパスがファンブル気味になり、これをカットされてレイアップに持ち込まれてしまった。1点差で逆転負け――。

いずれも、与那嶺が直接ボールをカットされたわけではない。だが、「能代工戦は自分がボールを受ければ良かったし、前原戦は自分がボールをキープすれば良かった」と、ガードとしてはやってはいけない判断ミスをしたことに、悔やんでも悔やみきれなかった。

「僕の高校3年間は悔しい思いばかりなんです。大学でも……」

そう言うと、与那嶺は言葉をグッと飲み込んだ。「だから、今は後悔したくない」――そのあとに続くであろう言葉の先には、東京との最終2連戦が控えていた。悔しい思い出、とはいっても、過去の過ちを教訓にするかのように前向きに語っていた与那嶺が、目の前のワイルドカード争いのことになると、今度ばかりは「司令塔として同じ轍は踏まない」との思いからか、表情を険しくさせていた。



173pがプロで生き抜くには、バスケットの“知識”をつけろ!

結局、大分は東京との2連戦を含む終盤に5連敗を喫してしまい、ワイルドカード進出を逃した。あと1勝さえすればよかった。1点差でもいいからあと1勝さえすれば、同率の福岡に得失点差で上回るため、ワイルドカード進出が決まった。しかも、東京との最終試合は前半
10点のリードを追いつかれ、延長戦に突入しての1点差での惜敗。与那嶺は30分出場し、14得点、6アシストを記録して役割を果たしたが、延長戦に入ってからはディフェンスの際に接触して足を痛めてしまい、最後はコートに立つことができなかった。それもまた、悔しさを募らせていた。与那嶺が司令塔としてチームを機能させなかったから負けたわけではない。というよりは、チームの持つエネルギーが東京に及ばなかった内容だった。

大学時代は自身の存在をどうアピールしようかと向上心を燃やしてきた与那嶺だが、いまや大分のスタメン。いかにして「ゲームをコントロールするか」という一段階上の壁にぶつかっている。特に、大分にはリーグ屈指の得点力を誇る211pのアンディー・エリスがいる。彼の生かし方がカギとなるが、与那嶺は「外国人選手の使い方を考えすぎてしまって、それを迷っていると、今度はアウトサイドの得点チャンスを見失ったり、コールすることすら戸惑ってしまったりする時がある」のだという。また、改善しなければならないのが、ターンオーバーを犯したあと。与那嶺はゲームの入り方がいいと好調を持続するが、シュートタッチが悪かったり、ターンオーバーを犯したりしたあとに、ゲーム中に修正して自分のリズムを保つことがまだできない。スタメンで試合に出るようになって出てきた課題は多い。

「僕の身長ではポイントガードしかできない。誰よりも必死に、一生懸命やることが今までのモットーだったんですが、これから僕のような小さい選手がプロリーグで生き抜いていくには、必死さだけじゃダメなんだと痛感しています。身につけたいのはバスケットの知識。身体能力というのは年齢とともに衰えていくものだと思うので、歳を取ってもバスケができるように、考えてプレイできるガードになりたい。経験って失敗を繰り返して修正していくことなのかなあと、bjリーグで試合に出るようになってわかるようになりました」と、スタメンになったからこそ実感できた手応えを得て、今シーズンを終えた。

悔しい結果に終わった2年目。ガードとして外国人選手の使い方の難しさを知った2年目。スタメンとなって“経験”の意味を考えるようになった2年目。与那嶺が大分になくてはならない存在となったことは間違いない。大きく飛躍した173pの司令塔は、尊敬する鈴木裕紀とともに、来季へ期待をこめて、チームにプロテクトされた2人の日本人選手に名を連ねた。これは与那嶺翼がフロントに実力を「認めさせた」結果だ。


写真:アフロスポーツ/bjリーグ



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2008年5月13日

澤岻直人(琉球ゴールデンキングス)〜フランチャイズビルダーが歩むべき道

取材・文:小永吉陽子


あの、プレイをもう一度見たい――。

タイトなディフェンスをものともせずにスルっとかわしてゴールに突き進み、ブロックが跳んできても抜群のボディコントロールで制空権を制し、タイミングをずらしてシュートに持ち込む。2枚目のブロックが跳んできても、今度は絶妙な手首と指の加減によってフィニッシュをコントロールする。得点だけではない。遙か先を予測した流れを作り出し、アシストに転じて周りを生かしてみせる。澤岻直人はいい意味で周囲の予想を裏切るプレイヤーだ。
バスケットボールが盛んな沖縄の地で生まれ、コザ中、北中城高時代は「自由奔放な沖縄バスケ」の代名詞にあげられてきた。その後、法政大学、JBLアイシンを経て、2007年、3年目のbjでドラフト1位の看板を背負って故郷に凱旋した。bjリーグ初参戦となる今シーズンは日本人選手唯一のベスト5に選出され、アシスト賞(1試合平均5.8本)に輝くほど、日本人選手の中では力が突出していた。だが、期待を一心に背負ったキングスの初年度は10勝34敗と大きく負け越し、失意のままにシーズンが終わった。
それでも――澤岻直人のバスケットは人々の心を惹きつけて離さなかった。誰の目から見てもわかりやすく、唸るようなプレイをいとも簡単にやってのける。澤岻直人は日本人には数少ない、1on1の能力でお客を呼ぶことのできるプレイヤーだからだ。
ホームゲーム最終日となった4月6日。最下位の成績にも、話好きな彼の口からはとめどもなく言葉があふれてきた。ここに記されているのは、キングスのフランチャイズビルダーとして沖縄を背負い、そしてbj初年度からベスト5を受賞した澤岻直人が心の奥底から語る本音。インタビューから見えるヒューマンストーリーである。


自分も、チームも、迷ったbj1年目

「チームは最下位ですから状態はよくはないです。うちは選手が若いし経験がないから」と言ったあと、堰を切ったかのように言葉が出てきた。「最下位に終わった初年度を振り返って、チームと自身の状態を分析してください」と、ひとつ目の質問をした直後のことだ。

「僕自身のことでいえば、僕がシュートを打たなくなったら点数が動かないし、かといって僕がシュートを打っている間はコントロールができないし、両方(点を取らせる側と取る側)に起点がないとダメですね。うちのチームはまだみんな若いでしょ。だから合わせることができない選手が多い。特に外国人選手は目立ちたいから自分からオフェンスを仕掛けたいんです。自分で引き付けて周りを生かすようなシンプルな動きができない。うちだけじゃなく、bjにはそういう選手がかなり多いと思いますね。僕も高校や大学1、2年まではそうだったのかもしれないけれど」

――キングスは得点を取るのも、仕掛けるのもすべて澤岻選手から。試合のいろいろな場面に絡んでいると、どうしてもミスが多くなる。今の段階では澤岻選手の能力が生かされず、もったいない場面が多々見受けられます。自身ももどかしいのでは?

「キングスでは『どうしたら勝てる?』ということを考えてしまうあまりに、自分のバスケのことは忘れているような気がします。勝つためにどうすればいいかわかっているけれど、それをやったら自分の良さが半減してしまう。普通のチームならやらなくてもいい場面でも、このチームだったらここで点を取りに行かないとダメだという場面がすごく多い。ゲームのポイントで自分が動くんじゃなくて、自分でゲームを動かさないといけないポイントが多すぎるんです。
本当はチームをサポートする側にいたいんですよね。その中でPGとして確率のいいところでスコアしたい。アタックしながら使えるところを使って、確率のいいペネトレートを使ったり、得点をしたり。希望はアシスト10本、得点は15〜20点で、ディフェンスを頑張ること。でも今は僕が20点以上取って、アシスト5本くらいならチームが機能するシチュエーション。だから1年目が終わってどうかと聞かれたら、いい状態とは言えないですよね。若いからこれからでしょうけれど、1年目だから勝てないというのは言い訳です」



「フィーリング」から「確信」のバスケへの脱皮

澤岻直人のプレイは「沖縄特有の独特のリズム」とよく紹介される。でも――その表現は少しばかり違う。確かに独特のリズムを持ってはいるが、それは「沖縄特有」の“自由奔放さ”だけでなく、一方で、バスケットボールに対しては人一倍思慮深く、クレバーな考えのもとプレイに転じているのだ。どういうことかといえば、トリッキーな動きの裏にはディフェンスの動きをよく見ての判断があり、スピードで相手をかわすというよりは、緩急をつけた巧さで翻弄する。つまり、タイミングをずらして自分の空間にするテクニックを持ち併せているといえる。「沖縄特有」と評されるのは、「自称マイペース」な性格が時折顔を出して、コートの中で邪魔をするからだろう。周囲の動きに我慢できなくなると、一人でやり始めて集中の糸が切れてしまうこともある。周りと呼吸さえあえば、人々を感嘆させるビッグプレイが生まれるというのに、周りと噛みあわない場合は先走りしすぎて、とんでもないミスが生じる。ゆえにターンオーバーも多い。ともすれば、“諸刃の剣”になるのが、これまでの澤岻直人だった。

だが、そんな一面を十分に理解しながらも、「彼は変わってきている」と証言するのは、澤岻直人のプレイに惚れ込んでドラフト1位に指名した木村達郎GMだ。
「開幕前、沖縄では『直人にPGが務まるのか?』と言っている人がいました。それは高校時代までの彼しか見ていないから言えるセリフなんでしょう。彼はアイシンに入ってPGの勉強をしたことが間違いなく転機になっている。彼は今、1対1でやるバスケには興味がないはず。それでも1対1では彼の良さが存分に発揮できているのだから、今度は5対5になっても彼の創造性が表せるようなチームにしたいんです。直人は個性的な性格だから誤解されやすいけれど、彼ほど個人で練習をやって努力している選手はいないですから。キングスは直人をフランチャイズビルダー(球団の顔として成長していくこと)にして、直人が生きるチームにしていかなきゃならない。それが今後のキングスの課題です」

「今まではフィーリングでバスケをやってきた」。これは澤岻が大学卒業時に言っていた言葉だ。それが変わってきたのは、木村GMが言うようにアイシンの「考えるチームプレイ」に触れたからだろう。インタビューは澤岻のこれまでの歴史と背景についての質問に移る。

――bjに来る前にはアメリカでトライアウト(サマープロリーグ、NBADL)を経験しました。アメリカ挑戦の動機は何だったのですか?

「アメリカに行きたいと思ったのは大学の時から。というより、バスケは大学で辞めようと考えた時期がありました。将来的にバスケでお金を稼ぐのは無理だと思っていたし、でも小さい人間になりなくなかったので、英語と社会勉強をしながら、一度バスケから離れて気持ちをリフレッシュさせて働こうと思ったんです。ニューオリンズにおばあちゃんがいるので、そこでお世話になりながら、バスケがしたくなったらその時考えようかと」

――独特の感性やプレイの質からいって「澤岻は海外向き」という声も多かったですね。

「でも、自分に能力があるなんて思ったことないし、独特の感覚って何?って感じ。そもそも、自分がバスケットボールを職業として続けるべき人間なのかを考えていたくらいですからね。そうしたら(JBLの)アイシンと東芝から契約の話をもらった。大学のコーチに『JBLには行かないでアメリカに行きます』と言ったら『日本のトップチームの誘いを断ってお前はアメリカで何をするんだ?』と言われました(笑)。
ぶっちゃけ、大学の時はJBLの試合を見てもすごいと思わなかったんですよ。ゲームの流れより個人のスキルばかり見ていて、一目ですごいとわかる能力を持った人がいないから、何がすごいのかわからなかった。JBLで日本的なバスケをしてバスケ人生が終わってしまうのかなあ。だったら、やりたいことをやろうと思ったんです」

――それがなぜJBLに進もうと決心したのですか?

「大学のコーチと相談した時に、僕がアメリカに行っている間に日本で一番のPGと言われる佐古(賢一)さんやノブさん(佐藤信長)、セツさん(節政貴弘)っていなくなっちゃうんじゃない? と思ったら、佐古さんたちがいるうちに日本一のチームに入って、日本一のPGから勉強をしようと。『日本一のチームには何があるはず』という発想でアイシンに入りました」

――日本一のアイシンでは何を学びましたか?

「バスケって個人能力だけじゃないと知ったことですね。アイシンには佐古さん、外山(英明)さん、後藤(正規)さん、ノブさん、JR(桜木ジェイアール)とか日本を代表する人たちがいて、一人一人もすごいけれど5人の相乗効果から生まれるプレイは本当にすごくて、一人だけがいいパフォーマンスを持っていてもバスケはできないんだと知りました。今までやったことのないバスケで、勝つためには試合展開を読んだり、ゲームをコントロールしたり、いい時間帯を持続させるために我慢したり、チーム全員が何をするかわかっていて実行することが必要だと知った。だからアイシンに行ったことはすごく良かった。たぶん大学のままで終わっていたら、ボールをもらったら1対1やっているような単純なバスケットしかできなかったと思う」

――2シーズン在籍したのちにアイシンを退部。改めて聞きますが、その後、アメリカに渡った理由は?

「もともとアイシンには、2年くらいしかいるつもりはなかった。勉強のためと思っていたので。1年目は良かったんですよ。ノブさんがいて佐古さんがいて、試合に出られなかったけれどPGの勉強ができて。でも、2年目はやることをやっていたのに、試合に出られなかったのはつらかった。コーチは『澤岻のバスケで点を取ればいい』と言う。でも僕は点を取るだけなら大学と一緒だし、だったら2番(SG)で出たいと思ったけど1番(PG)で使われた。外山さんとかに話を聞いても自分のバスケに対する考えは間違っていないこともわかったし、そういうのも勉強になった。でも2年目が終わった時に、来年もし同じ状況だったら確実につぶれるし、この組織の中では自分のバスケを見失ってしまうと感じた。それでもっと個人を生かせるように、自分探しの旅に行こうと、今度はスキルアップのためにアメリカに行くことに決めました」

――大学の時に感じていたアメリカは漠然としたものだったけれど、アイシン退社後はスキルアップのための渡米だったのですね。アメリカで“自分”は見つけられましたか?

「アメリカでもマイナーリーグならば『やれるかな』という手ごたえや、日本人にもチャンスがあるということはわかりました。アメリカには個人的に教わっているトレーナー(ジェイソン・ライト氏)がいて、その人自身もNBAに挑戦していた人なんだけど、僕に『真剣に目指せばNBAに挑戦できる』と言ってくれました。これはアメリカに行かなければわからないことだったので、行ったことはよかった。でも、バスケ選手として生活していくにはマイナーリーグでは金銭面で厳しいものがあるし、何が何でもアメリカでバスケというわけではなかったんですよね」


自分探しの旅は終わり、沖縄を背負う人間へ

澤岻直人はこれからどこに向かうのか――。祖母を頼って初めてアメリカに渡ったのが大学時代。アイシン時代はオフになると自費で渡米し、トレーニングを積んでいたという。「真剣にアメリカでやることを考えていたわけじゃない」と言いつつも、いつもどこかで、自分にふさわしい場所を捜し求めていた。誰の目から見ても能力はすごいのに、それでも「自分探しの旅」に出掛けてしまうほど、現状に満足したことなど一度もない。
ただ、法政大時代は楽しかったという。自分が無理してやらなくても、苦しい時に得点を取ってくれる板倉令奈という心強い相棒や、山田謙治という頼もしい後輩がいたからだ。インカレのベスト4が最高成績だったけれど、少なくともフィーリングだけでプレイしてきた者が、周囲を生かすことを覚えたことで少しずつバスケットボールの奥深さを発見していった。そして、「勝つために何が必要か学んだ」アイシンを経て、「自分の居場所を探した」アメリカの旅も終わり、沖縄でバスケットボールを発展させるために故郷に戻ってきた。今度こそチームを勝たせるべく、自分探しの旅からはもう卒業しなければならない。

――沖縄にbjのチームができると知った時はどんな気持ちでしたか?

「いや、キングスができると聞いた時はアメリカのことしか考えてなかったし、キングスから誘われると思ってなかった。話を聞いているうちに、立ち上げに参加してみたいと思うようになった。実戦から遠ざかっていることも打破したかったので、自分のキャリアをもっと積み上げたいと思うようになりました」

――澤岻選手の中では、bjもJBLもアメリカも、どこでプレイしようと関係ないことですか?

「やっばり、レベル的にはbjよりJBLのほうが選手のレベルやゲームの質が高いというのはある。けれどバスケをすることに環境というか、プレイをすることに変わりはないじゃないですか。bjで優勝するのと、JBLで最下位ならどっちがいいかといったら、どう思います? 僕だったら、自分が中心になって優勝の可能性があるところでプレイしたい。自分を必要としてくれるチームで働きたい。その辺の考え方だと思うんです。マイペースな性格なので、今さら会社員なんてできないし(笑)」

――澤岻直人にとって「沖縄でバスケットボールをすること」とは?

「沖縄で地元の人に自分のパフォーマンスを見せられることは気持ちいいし、楽しいこと。環境的にも実家から通えることは楽だし、生まれ育った県内の人がサポートしてくれる環境は僕にとっては最高にいいもの。声援もありがたい。子どもが大勢見に来るでしょ。沖縄のプレイヤーもトップでやれるよ、って僕がやり方を示してあげることもできる」

――これは、澤岻選手を学生時代から見てきた印象なんですが、澤岻選手はいつも何かを探しているように見えました。自分探しの旅に出たということは、これまでどのカテゴリーでプレイしても現状に満足することはなかったということですか? そして今は澤岻選手が中心となるべきチームにいるわけですが、今の澤岻直人を動かす原動力は何ですか?

「確かに、今までのバスケには全然満足できてないです。僕、大切な試合では負けている数が圧倒的に多いんです。法政でも最後のインカレで4位がやっと。『負け』=『結果が出ていない』ということなのかな。結局、自分は今まで一番になったことがない。やるからには一番になりたいし、パーフェクトといえるパフォーマンスを見せたいし、結果を出したい。自分はもっとできると思いつつも、それ以上にできていない自分がいて、煮え切らない結果になっていく。上に行かないと見えないこともあるだろうし、上はどういう世界なのか感じてみたい。だから、強いチームで自分のパフォーマンスを発揮して優勝してみたい。これでいいんだ、こうやれば楽しいと思えるバスケットボールをやりたい。キングスをそういうチームにしていきたいんですけどね」

――自分が満足するために、結果を出すために必要なことは何だと思いますか?

「自分自身をもっと見つめること。自分がもっと成長しなきゃダメでしょう。もう、こんなに負けるのはイヤだから」


今回のインタビューでひとつ聞きたいことがあった。キングスの中で澤岻だけが極端にバスパンの丈が短いことについて、だ。澤岻の出身校である北中城高は全国でいち早く、膝下まであるパスパンでインターハイに登場したチーム。今でこそ、どんなウエアも取り寄せて買える時代になったが、澤岻が高校生の時は、実家のコザ周辺にあるアメリカ輸入品のウエアを揃える専門店に駆けつけては、内地にはないデザインの練習着に身を包んでいた。澤岻も例外ではなく、アグレッシブなプレイに時代の先端をいくピッグパンツが映えていたものだった。そんな澤岻が、今となってはちょっと不恰好ないでたちでコートに立っている。答えは実に単純明快なものだった。「長いとプレイするのにジャマだから」。

「バスパンは腰のところを折り曲げて履いています。長いのは好きじゃないんですよ。遊びでやる時は長くてもいいけれど、試合になるとジャマじゃないですか。レッグスルーの時とか引っ掛かったりするし。丈をワンサイズ短くして 幅が細いと動きにくいので幅をワンサイズ太くしています。格好よりパフォーマンスのほうが大事だから」
長いバスパンでウォーミングアップをし、試合になると短く実用的な姿に変身する。マイペースな半面、バスケットではクレバーだという性質を表しているエピソードである。

ホーム最終戦、澤岻が個人的に契約しているトレーニングコーチ、ジェイソン・ライト氏が沖縄まで観戦に来ていた。ライト氏は澤岻にこのようなメッセージを送った。
「ナオトの課題はクイックネスを身につけて、強い体を作ること、安定性を目指すこと。実はシーズン中もしょっちゅう電話をかけてきては相談されているんだ。だから今日は沖縄まで見に来たよ(笑)。彼はもっともっと伸びるよ。向上心が高い選手だからね」
澤岻はこのオフ、2、3か月間アメリカに渡り、ライト氏のもと、みっちりとトレーニングに励む予定だという。琉球の地でフランチャイズビルダーとして周りを生かし、個も生きるため。澤岻直人として、満足するためである。


写真:アフロスポーツ/bjリーグ


2008年3月27日

川面剛(ライジング福岡)〜故郷でつかんだ「離したくない夢」〜

取材・文:小永吉陽子




地元の憧れの選手「ツヨシさん」

「ツヨシさーん、頑張って!」 

11月21日、琉球ゴールデンキングスとの新規参入同士の戦い。記念すべきホーム初勝利を飾ったこの日、川面剛の一番の応援部隊は、クリニックで指導した大勢の子どもたちだった。川面のことを「ツヨシさん」と呼ぶミニバスの子どもたちは、川面がシュートを入れるたび、ボールを持つたびに応援席から身を乗り出してはしゃいでいた。子どもたちにとって、ツヨシさんはバスケットの先生であり、地元の憧れのプレイヤーなのだ。

「ツヨシさんって声援をもらうと、頑張れちゃいますね(笑)」

川面剛と接すると、きっと誰もがファンになってしまうだろう。浅黒い素肌に、笑顔からのぞく真っ白い歯。誠実で気さくな性格であり、周りへの気遣いは人一倍。好青年という言葉がよく似合う川面剛は、キャプテンとして、司令塔として、チームリーダーとして、すべてにおいてライジング福岡の顔となっている。 実直な性格だからか、シャイな一面を持つからなのか、川面は自分のことを多くは語ろうとしない。ましてや、ライジング福岡がbjリーグに参入するまでの苦労話を聞きだそうとしても、「あの時はきつかったですね」と苦笑いするだけで、すべてを過去の話にしてしまう。川面は“今”を懸命に生きる男だ。

「ツヨシさん」と慕う子どもたちと同じくらい、自身も川面剛の大ファンだという山本華世球団代表が、彼の思いを代弁してくれた。

「ライジングは『福岡にプロチームを』という川面の熱い思いで設立したチームなんです。bjリーグ入りすることを前提に、福岡BBボーイズ(福岡のクラブチーム)で活動をしていたけれど、プロチームになれるという保証はどこにもなかった。そんな不安な中で川面は一人で地道にクリニック活動を続け、スポンサー集めにも協力してくれた。チームで一番年上の彼が、練習に、クリニックに、ボテランティア活動に、自ら進んで熱心にやる。若い選手たちは、そんな川面の背中を見て育ってきているんです」


二度引退した男が味わう「バスケができる喜び」

これまで川面は現役を二度引退している。2004-2005シーズンをもって、9年間所属したJBL松下電器(現パナソニック)から去る時が一度目。その直後、新しく福岡に立ち上がることになった福岡レッドファルコンズでプレイするために、再びJBLに登録することになる。「生まれ育った故郷にバスケットを広めたい」思いから復帰を決意したのだ。
しかし、レッドファルコンズは1年目から経営不振に陥り、14試合を残してJBLから退会。この時が事実上、二度目の引退だった。チームメイトが次々に福岡から去り、新天地を模索していく中で、川面は一人で福岡に残り、かといってすぐには身動きを取ることもできずに、今後の身の振り方を自問自答していた。山本球団代表はこの時の川面の苦しみを知っている。

「本人は、もうバスケットボールはできないんじゃないか…とまで自分を追い込んでいました。故郷で頑張ろうとした矢先にチームがなくなったのですから。何が彼を動かしたかというと、『福岡をこのままにしたくない』という、その思いだけですよね」

2006年、クラブチームの福岡BBボーイズに所属しながらプロリーグ入りを目指すことを決めた川面は、将来も何らかの形でバスケットボールに携われるようにと、福岡大学大学院スポーツ健康科学研究科修士課程に入学。教職課程を履修しながら、自身の可能性を広げていった。さらには、福岡大女子バスケットボール部のアシスタントコーチを務める新境地も開き、その傍らでbjリーグ入りに向けて、プロモーションやクリニックなどの普及活動に精を出す毎日を送った。すべては「もう一度、福岡にプロバスケットボールチームを作る」ため。やれることはすべて自分の手で切り拓いてきた。

だから、心の底からの笑顔で言う。「環境は自分で作るものだということが、福岡に来てわかった。松下の看板を下した時に、バスケをするのがこんなにも大変なのかと知った。バスケに対する思いは今も昔も変わらない。けれど、コートに立った時の気持ちは今のほうが、すごくうれしいんです」
 

意識を高め、チーム力を上げ、着実に形成されていくプロチームの形

ライジング福岡は前線から激しくプレッシャーをかけるフルコートディフェンスと、ファーストブレイクを売りにしている。シーズン当初からポイントガードの仲西淳が負傷したこともあり、川面はフル出場に近いプレイタイムの中で福岡の走りを支えている。

川面が急成長を遂げた流通科学大時代。インカレで全国デビューした時、「誰だ!? この速い選手は」「なんだ!? この運動能力の高さは」と、突如注目を集めたものだった。「175pでダンクができる選手」――川面の持ち味は30を超えた今も色褪せない。だが、プレイスタイルは変わってきている。同じポイントガードをしているといっても、どちらかというと、スピードで掻き回すタイプだったJBL時代と比べ、ゲームを掌握する立場にいる今は、歴史も経験も浅いチームをまとめる難しさに直面している。

3月23日現在、ライジング福岡は14勝24敗でウエスタン・カンファレンス4位。1月11日からは8連敗を喫してしまい、ワイルドカード争いに絡むギリギリのところにいる。8連敗中には、東京アパッチに延長戦に持ち込まれ、逆転負けを喫した無念の試合もあった。延長で敗れたあと、川面は悔しさと怒りをあらわにしていた。

「プロとしてライジングの看板を背負っている以上、選手がもっと『勝ちたい』という思いを表に出していかなきゃいけないのに、まだ表に出せていない。新規参入とか関係なく、チーム内の意識がまだ低い。僕はみんなに言うつもりです。こんなんじゃ勝てないって」

JBLで引退、休部を経験。ライジング福岡の立ち上げから関わり、「バスケができない苦しみ」を味わってきた男だからこそ、「バスケができる今」若い選手たちに伝えなきゃいけない思いがある。

2月に入り、チームは少しずつ変化していく。8連敗以降、東京アパッチ戦を除いて、同一カードでの連敗はしなくなったのだ。アーリーチャレンジ制度により、大東文化大から竹野明倫と、昨年高松ファイブアローズに在籍していた中川和之が加入したことがチームに活力を与えている。ともに川面と同じポイントガード。「2人が入ったことで僕自身はずいぶん楽になりました。今までは心臓破りなプレイタイムでしたから(笑)。何よりチームに競争意識が芽生えてきたことがいい。チーム力が底上げされてきたことを実感しています」
川面の声のトーンは少し上がっていた。


川面にコンタクトを取って話を聞いたのは3月のある日の練習後、球団事務所にいた夜のことだった。聞けば、スタッフと打ち合わせをしていたという。スポンサーへの関わりやイベントの実施など、コート外のことにも気を配っているからだろうか。山本球団代表の言葉を借りれば「選手としてやらなくていいことも、放っておけない」のだろう。でもきっと、川面にとっては裏方の仕事も、運営面での打ち合わせも、決して苦ではない。自身の手によって広めた福岡のバスケットボール熱は、少しずつながら着実に浸透してきている。広めた熱意を受けて、会場に足を運ぶファンへの感謝の気持ちこそが、川面剛の今を動かす原動力になっているのだから。




写真:アフロスポーツ/bjリーグ


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